「視覚」は五感のなかでもっとも情報豊かな大事な感覚なのだと言います。
しかし、俳優のなかには自分が何をどう見ているのか見ていないのか、指摘されてさえ気づくのが容易でない人がいて、目は外に向いているようでも、自分の内側を見ている──など、よくあることです。
習慣的に自分の内側をみている人が増えていますが、それは主観・客観の問題にもつながることなので別の機会に取り上げるとして、今回は「Art of Living」の視点から「見る」ことについて取り上げてみました。
普段の生活のなかで人があまり目を向けないところに目を向けること。気づくこと。興味を持つこと。それが「Art of Living」の基本です。
日常生活では普通、私たちは目に見えるものをあえてそれ以上見ようとすることもなく、当たり前のように見えるものを見ています。でも「Art of Living」における「見る」とは、日常で注意を払わずに見ていたものを、あらためてよく見てみること。言葉を変えると、自分の見ているものに意識をもっていくということです。
それが創造へとつながっていく基本になります。そしてこれが芸術の基本なら、芸術にはこの基本からの卒業はないということでしょう。
ただ、子どもの頃には無心で見ることができていたのに、悲しいことに大人になるにつれてそれがだんだん難しくなっていく。いろいろな体験から、また見聞きしたことから情報がいっぱい刷り込まれてしまい、子どものように澄んだ目でものを見ることが難しくなっていくということがあります。
また日本という環境のなかで、周りの目が気になる日本人にとって、まわりの目に惑わされることなく自分自身の目で見ることも難しくなっていく。まして俳優は見られる存在ですから。
そして、いつも見ているから「知っている」ではなくて、初めて見るように「見る」こと、自分の思い込みを捨てて「見る」こと──そういうことが私たちにはなかなかむずかしい。大人になってしまった自分と向き合い、長いこと脳に刷り込んでしまった当たり前とか価値観とか好みから「見る」ことをやめて、常に新たな目で素直に「見る」こと、それはそう簡単なことではありませんよね。俳優修業で、いや人生修業でこれが一番むずかしいことかも知れません。だから「修業」なんでしょうね。
さて、私が「Art of Living」という言葉に出会ったのは、「子どもたちのためのスタニスラフスキー」と副題のついた、子どもたちと指導者のために書かれた演技のための本があって、その前書きを読んだときです。
メソードのレッスンを受け始めて2,3年たった頃、著者がこの本を携えてストラスバーグのクラスに来ていて、私はこの本にとても興味をもちました。
スタニスラフスキーのレッスンが、子どもたちの生活のなかにある日常の簡単なことからはじまっていて、とてもシンプルな言葉で語られていました。若くてまだまだ頭でっかちだった当時の私には「目からうろこ」でした。
演技の勉強を通して、生活のなかにあるいろいろな事に気づく機会を子どもたちに与え、興味を持つこと、表現することの楽しさ大切さを説くこの本をいつか日本に紹介したいと思いながら、残念ながら諸々の事情によりいまだに実現していません。
スタニスラフスキーの演技システムの背景にある基本的な考えは、生活や人生への感謝なのだと本のとびらに著者が語っています。それが今から数年前に、モスクワから来日したGITISの演出家が講演のなかでやはり同じことを言っていて、スタニスラフスキーはまさしく「Art of Living」が基本なのだと、その時あらためてこの言葉を思い出しました。
しかし、21世紀に生きる私たちの生活は、スタニスラフスキーやストラスバーグが生きた時代とは大きく変わってきました。左脳教育の偏重はそう簡単には変わりそうもありません。生きた感覚の世界が遠ざかり、ヴァーチャルな世界がますます広がっていきます。
お寺の鐘がうるさいと言う近隣の苦情から除夜の鐘がつけなくなったとか、子どもたちの声がうるさいという苦情で開園できなくなった保育施設の問題など、不寛容さはますますエスカレートしていき、人々の顔から笑顔が消えていくように思います。
小泉八雲のエッセイ「日本の面影」に、日本人の素晴らしい笑顔について書いた文章がありますが、あの時代の生活のなかにあった私たちの笑顔はどこへ行ってしまったのでしょう。
1930年代に書かれたソーントン・ワイルダーの名作「わが町」には、ごく普通の人たちの平凡で何気ない日常の素晴らしい営みが書かれています。
最後のエミリーのセリフがいつも胸に迫ってきます。「ああ、地上よ、あなたはあまりにもすばらしすぎて、だれもそれに気づかないんだわ。」「人間てほんとに、何も見えていないんだわ。」
目を向けてみれば、そばに梅の花が咲いていたり、いつも通る道が綺麗に掃除されていたり──。気づくことの大切さ、そして一つでも多くの笑顔に出会えますように!