ストラスバーグが亡くなって帰国した当時、日本では「右脳革命」という本がベストセラーになっていました。
この本を読んで初めて、自分が受けてきた「メソード演技」が右脳思考による訓練であったこと、言葉での説明や理解を徹底的に介入させないストラスバーグの指導法には科学的な裏づけがあり、理にかなった訓練法であったことを再認識できたのです。
名優たちが毎晩舞台で見せる素晴らしい演技は、何をどうしたら生み出すことができるのか、俳優が舞台上で求められる生きた本当の感情表現はどうやったら繰り返せるのか──スタニスラフスキーは研究に研究を重ね、そうした演技のシステム化のために力をつくしました。
「パブロフの犬」の実験で有名な条件反射の研究や、精神分析を基調とするフロイトの「無意識」の研究がなされた当時、スタニスラフスキーの演技の研究にはこうした新しい科学の時代が背景にありました。
私がストラスバーグに出会った70年代のアメリカでは精神分析が盛んで、一般の人たちが普通に精神分析医に通っているような時代でした。アクターズ・スタジオのメンバーは俳優の他に演出家や脚本家などいろいろですが、精神分析医もいてちょっとびっくりしました。20世紀に入って俳優の演技の研究は、こうして科学の進歩を背景に進められてきたわけです。
さて話を「右脳革命」に戻しますが、本の副題に「創造力活性化の決め手」と書かれています。この本が出版された1980年代には「言葉では表現できない特有な思考形態」をもった右脳の存在が解明され、昔はとらえようもないと思われていた俳優のインスピレーションや無意識のことなどが、頭のなかの創造的なプロセスの仕組みとして具体的になってきたわけです。
この本を手にして、目次に目を通しただけで興奮したことを今でも覚えてしますが、一度読んだきりで、その後公演活動などに忙しく、読み返す暇がないまま最近に至ってしまいました。
著者であるトーマス・R・ブレークスリ氏は工科大を卒業した発明家、編訳者は経営コンサルタントであり起業家でもある大前研一氏で、決してアーティストのためとか、演技書として書かれた本ではありません。
その後21世紀に入って「脳」の研究はさらに著しく進みましたが、左脳と右脳の役割を認識し、そのバランスによって私たちの持つ潜在能力を高めようと説くこの本は、いま読んでも大変重要な本であることに変わりはないと思います。
さてしかし、右脳のことが分かったからと言って演技の問題はそれで解決したわけではありません。日本の俳優教育の現場はまだまだ昔のまま、言葉にたよる左脳型教育が大きな壁になっています。ここで注意しなくてはいけないのは、一度左脳型教育でしっかり固められてしまうと、「頭脳の癖」はどんどん左脳型になっていく傾向があります。
そして大事なことは、右脳は左脳を黙らせないと働いてくれないのです。
そうした左脳型俳優が「メソード演技」の訓練を受けた場合、真面目に一生懸命やればやるほど左脳で努力し続けるため、最後は何をどうしたら良いのか分からないまま終わってしまうことになります。
この本にはとても分かりやすい〈昔流の左脳式ダンス教習法〉の話が載っています。
例えば、ダンスのステップを覚えるのに、1で右足を前に出して、2で左足を揃える、その左足を左側に開いて・・・と、一足一足、何度も繰り返しながらやるステップの練習風景! 身体を使って覚えるダンスやスポーツに左脳は適していません。
非常に効率の悪いやり方だし、結果的に楽しむところではなくて、あまりに難しくてやめてしまうことに・・・。高等教育を受けた多くの知識人に見られるそうです。
要はバランスなんです。
身体表現だけでなく、戯曲の読み取りや台詞を消化しなければならない俳優という仕事には左脳教育も欠かすことはできず、右脳左脳の両思考が必要です。ダンスとは違って俳優の訓練はちょっと複雑ですが、右脳思考を理解し、その能力を大きく開発していくことは大いに可能だということです。
本の表紙カバーの裏側にはこう書かれています。
「沈黙せる右脳の持つ創造力を解放し、人間の潜在意識を高めよう!」