先日、レッスン中にあらためて「直接感情を作ろうとする演技の問題」を考えさせられました。セリフに関しても「言葉に対して言葉で取り組む問題」があります。どちらも身体への意識が働かず、行動と結びついていきません。
多くの役者が抱えている問題ですが、この指導にいつも悩まされます。それじゃダメなのだと指摘し説明をしても、演技の基礎ができていない場合、頭に刷り込まれてしまっているその人本来のやり方からなかなか抜けられないのです。
「それじゃ、どうしたらいいのですか?」となるのですが、ここで上手く分かりやすく説明して納得させてあげられれば、とても良い先生になるわけです。
ところが、本格的に演技の勉強をするなら、言葉で説明を受けて、言葉で理解するやり方じゃダメなんです。いくら納得したところで、役者は身体でできなければ分かったことにならない。分かるためには、これから飛び込もうとする世界に興味をもち、実際に身体を使いながら、使ったことのない脳の部分を使う努力と柔軟性がないと、身体ではつかめないのです。
アクターズ・トレーナーの仕事は、俳優を身体ごとそこへ到達させられるかどうか・・・この一言だと思います。経験とスキルと情熱が必要ですね。
日本にはまだ本格的なアクターズ・トレーナーの位置づけができていないのです。
私自身、まだまだ修行中ですし、俳優と同じで死ぬまで修行なのだと思います。
さて、演劇的思考というか、行動的思考というのがあります。それを身につけるには訓練が必要です。訓練された後に台本を読むと読み方が違ってきます。
言葉や感情で台本を読んでいる場合、役者本人の世界で読んでしまって、作品そのものを読み取れていないまま、自分の想像力を働かせていることがよくあります。
作品に書かれていないことを作り上げ、客観的にみて非常におかしな唐突な演技をしていても本人は気づかない。ベテラン俳優であっても同様のことが起こります。
「私はこうやって何十年も演技してきたのだ」と逆に居直られたこともあります。
いずれにしても基礎がないのでこういう問題がおこるわけです。基礎がない場合、共通言語が持てないので話し合いも難しくなります。
ところでなぜ、求められている感情に対して直接感情を作ろうとすることが良くないのでしょう。
感情には必ず原因があります。原因があってその結果、不安になったり嬉しくなったり涙が出てくるのです。その原因を探り出すことが大事です。涙にはいろいろな涙があります。なぜ泣いているのか、嬉し涙なのか悔し涙なのか、そこに至るまでの過程が演技者の身体に入っている必要があります。それまでにどんなことがあったのか、出来事や状況が身体に落とし込めていないと、役の人物の涙ではなく、役者本人の涙になってしまいます。
舞台上で演技者が涙を流しながら泣いているのに、観客として共感できず冷めた目で見てしまった経験ありませんか? 芝居の流れのなかで、突然、役者の生々しい感情に出会い、違和感をおぼえることがあります。
最後にセリフに関して。
言葉は、身体を通し内面につながって語られたいのです。
言葉にとらわれ、言い回しにこだわる。滑舌を意識し過ぎたり・・・。そんな方たちのために。
詩人谷川俊太郎さんが「情熱大陸」というテレビの番組のなかで、「詩を書くときに心がけていることは何ですか?」とファンの方から聞かれて「からっぽの状態にすること。まずは言葉を消さないと僕は書けないのですよ」と答えていました。
今、私の手元に俊太郎さんの「詩の本」があります。7月に札幌へ行ったとき、今年5月にオープンしたばかりの「俊カフェ」で出会った詩集です。
「新しい詩」という最初の詩のなかに、
君は言葉を探しすぎてる
言葉じゃなくたっていいじゃないか
目に見えなくたって
耳に聞こえなくたっていいじゃないか
という一節があります。
そして最後にこう結びます。
きみは毎朝毎晩死んでいいんだ
新しい詩をみつけるために
むしろ新しい詩にみつけてもらうために
例えば、詩の朗読会にきた人たちは言葉を聞きたいのでしょうか? 劇を観にきた人たちは俳優のセリフが聞きたいのでしょうか?
巨匠ピーター・ブルックと共に活動を続ける笈田ヨシさんの言葉から。
「いい芝居は、見たり聞いたりするだけでなく、その場で大事な事を体験できる空間を与えてくれるのです。」